「チ。-地球の運動について-」と私
「チ。-地球の運動について-」
作品の丁寧な紹介や解説等まで書くとあまりに長くなりそうなので、読んで感じたこととか私の思想とかだけ書き殴りたいと思う。
つまり作品を通した自分語りです。
まずこの漫画があまりに私の心の琴線に触れすぎた背景として、二つの点が挙げられる。
・天文学や星、宇宙大好き
→叶わなかったが、IPMU(数物連携宇宙物理科学研究所)への入所が夢だったりもした
・知性や教養が人間にとって何よりも重要なものであるという思想
→自分がこの思想を持つようになった経緯ははっきりしない、なんでだろう、、、
大学時代、岩波文庫(青)をほぼ読破する勢いで読んだ。プラトンの「国家」からショウペンハウウェルの「知性について」、アーネストウィークリーの「ことばのロマンス」に至るまで、ジャンルは多岐に渡るが、多くは20世紀より前に著されたもの(やその解説書)。つまり、これらはそれが著された以降のあらゆる時代に生きた人間が意図的に後世に残してきた、普遍的で、汎用的な、ある種の「真理」を説いたものだと私は考えている。
というか、「普遍的で汎用的なある種の『真理』」しか、時代を超えて残ることはできないのだと思っている。なぜなら、どのような社会情勢下でも、どのような立場でも、どのような言語を使用していても、変わらず愛され続けるものは、文化や社会を問わず「普遍的に」人間が求めるものであり、もしそうでないならば、刻々と変化する社会や文化の中で淘汰されていくはずだからだ。これはもちろん書物や思想に限らず、音楽や絵画等の芸術作品にも同じことが言えると思っている。
例えばフランス革命の時にも、第二次世界大戦の時にも、どんな時も人間に読み続けられ受け継がれる書物や思想の尊さの真髄というのは、それそのものの価値もさることながら、その背景にあるこれまでの全ての歴史であり、受け継いできた先人たちの意志であり、先人たちが生きて歴史の一部となった意義であると私は考えている。
少し脱線したが、このような思想のもと、私は岩波文庫を読み漁っていた。大学図書館で読めばいいものをわざわざブックオフに行って100円とかでドカッと買って、とにかく読んだ。(そして卒業時に全て売り払った。ちょっと後悔してる)
なぜか。
私は「真理」が知りたかった。
宇宙の真理、人間の真理、この世界の真理を全て知りたかった。
なぜか。
それはもう、この世に生きてるから、としか言いようがない。
チ。-地球の運動について-
この物語は、次の一節で始まる。
『硬貨を数枚捧げれば、パンを得られる。
税を捧げれば、権利を得られる。
労働を捧げれば、報酬を得られる。
なら一体何を捧げれば、
この世の全てを知れるーー?』
宇宙の真理を求め、
それが異端とされる時代に“地動説”を追究せんとする人々の物語である。
“地動説”と聞くと、ガリレオ・ガリレイを思い浮かべる人が多いだろうか。
彼が“地動説”を実証した結果、カトリック教会に「異端」として処刑され最期を迎えたことはご存知の方も多いと思う。
それは、当時の教会はプラトンやアリストテレスが提唱した“天動説”を通念としており、反する“地動説”は教義に背く考えだとされたためである。
ちなみに、彼が実証する前に、この説を提唱したのはコペルニクス。
この物語では、コペルニクス以前の地動説と教会(物語ではC教会とされている)にまつわる人々が描かれている。
ガリレオ・ガリレイが処刑されたのは16世紀だが、この物語はそれよりももっと昔、15世紀前半から後半にかけての時代が舞台となる。
もちろん、この時代にも、ガリレオがかけられた「異端審問会」が存在していた。
「異端審問会」とは、平たく言えば信仰に反する者(異端者)と疑われるものを裁くための機関であり、裁判・処刑のみならず容疑者に対しての拷問も行っている。
「『平和的秩序を守るため』、異端者の存在は脅威であり、排斥すべきもの」というのが教会および異端審問会のある種の信念である。
現代の、特に日本人で、特定の宗教に対する信仰が当然であるという感覚を持たない私に言わせてみれば、信仰の強要や異なる思想の排斥、そしてこともあろうにそれが原因で命が奪われる危険性がある環境など、到底理解できるものではない。
だが、それが実際に行われていたという歴史的事実と、現在はそれが行われていないという事実だけでも、壮大な人類の文化的進化を読み解くことはできる。
似通った(といえば怒られるかもしれないが)現在進行形のものでいえば、今も議論が続く死刑制度の是非が挙げられるのではないだろうか。これについてもソーリング事件判決が示すように、と書こうとしたがこんなに脱線してたら何文字あっても足りないので別の機会にする。
とにかく、異端審問会による弾圧、その経緯とそれにまつわる人々の抗った歴史的意義についても思いを馳せる余地があるが、それはさておき。
登場人物たちは、
そのような時代背景の中で、
あるものは信念に、あるものは知的好奇心に、あるものは偶然によって、この宇宙の真理を解き明かそうと、C教の教義に背く“地動説”の追究に文字通り命を賭けるのである。
最初の主人公はラファウという少年。
齢12才である。
彼が出会った異端者は、天動説こそが真理だと信じるラファウに問う。
「その真理は、その宇宙は美しいか?」
と。
ラファウはその問いに対して、
星の動きが煩雑で混沌とし、合理的でなく、美しいとはいえない。
そう答える。
そして、異端者が説明する“地動説”が、理屈と美しさが落ち合うものであることに気づき、それに傾倒していくこととなる。
一方で、地動説の抱える矛盾と、それを追究するリスクに鑑みると、その考えは間違っており、命を賭けてまで研究するのは愚かだと異端者を諭す。
異端者はそんなラファウに、こう答える。
「不正解は無意味を意味しない」
そうして紆余曲折あって異端者は処刑され、1人地動説の研究を続けていたラファウもまた、義父の密告によって異端審問会にかけられることとなる。
そこで、いつしか地動説に魅せられていたラファウは、嘘をついて生き残ることよりも、自死により地動説の資料を守ることを選ぶ。
・・・ちょっと待って、取り上げたい台詞が多すぎてこのペースで書いてたら10年かかる。
台詞が出てきた経緯まで詳細に書くのやめる。
ざっくばらんにいえばラファウや初めに出てきた異端者のように、窮地に陥っては命の代わりに地動説を守り、次の者に託し、何年も何年も時間をかけて多くの人を経て、地動説を完成させていく。
その過程で、生きる意義、真理を求める意義、人が受け継いでいく歴史の尊さ、信念を持って生き、死ぬ覚悟、この世界の尊さが描かれる。
例え死んでも、成果や考えは受け継がれてゆき、いつか実を結ぶ。そこに希望を見出し最期を迎える人々の美しさに、これでもかというくらいに胸を打たれた。
(伊坂幸太郎「フィッシュストーリー」がこれをもっとポップにした感じかも。俺たちの歌がいつか世界を救うんだ)
歴史の尊さが見事に表されていると思う。
作中、登場人物の数々の台詞に涙が溢れた。
読んでいる間ほぼずっと泣いてた。
もっと詳細に書きたいけど、眠くなってきたのでまとめに入る。(気分が乗れば加筆する)
何かの本で読んだことがある。
確か第二次世界大戦期に、強制労働をされていた男性の手記か何かだったと思う。
身ぐるみ剥がされて強制収容所に詰められ、絶望しか見えなかった時に自分を救ってくれたもの。
それは、脳内で暗誦していたダンテの「神曲」であったと。
そのエピソードを読んだ時からずっと、私には信じていることがある。
(現代の日本では限りなく可能性が低いことだが)、仮に身ぐるみ剥がされてどこかに強制的に閉じ込められたとして、それでも確かに残るものは何か。
それは、脳みそに詰め込んだ知識と、それを元に生まれる思考に他ならない。
それこそがその人間の本質であり、豊かさだと思う。
この世にはたくさんの物が溢れている。
でも私にはそのどれもが豊かさの本質ではないように思える。
私を私たらしめるもの、その人をその人たらしめるものは、高スペックなパートナーでもブランド物の衣服でも社会的地位でも金銭でも綺麗な顔面でもない。
人間の本質的な価値とは、
畢竟、知性である。
途方もなく壮大な歴史の礎の上に生きることの尊さと、未だ見ぬ何らかの意義、そして知性を持って生きることの豊かさに想いを馳せる。
社会生活を送る中で忘れていた、人間として大切なこと。自分が大切にしていたこと。
それを思い出すきっかけとなった。
それでも俗世的な悩みは尽きない。間違いだらけの人生かもしれない。けれど、「不正解は無意味を意味しない。」
チ。-地球の運動について-
この作品に出会えて良かった。